戦史の探求

戦史の情報を整理し探求するサイトです。 古今東西の全てを対象とし、特に戦況図や作戦図に着目しながら戦略・作戦・戦術について思索します。

タグ:片翼包囲

  包囲に対抗するための方策として鈎型陣形と呼ばれるものがあります。
 陣形とは書いていますが、その意図は敵が多角的攻撃をしてきた際に自軍部隊が『側面を曝したまま攻撃を受けないようにする』戦術コンセプトであり、幾何学性よりもその効果の方に本質的な意味があります。包囲形にされることをある程度想定に入れるという特徴があり、包囲攻撃を受ける際にそのインパクトが緩和されます。その点で対包囲戦術の1つとして、多くの戦で使用されました。ただし鉤型で対抗するということは受動的で複数のリスクもありました。
1642_Battle of Honnecourt_鉤型陣形の敗北

 今回はそれらの包囲をされた際に側面を曝さないようにした戦術的行動を鈎型陣形と呼称し、その基礎概念について記そうと思います。如何にして鈎型陣形をとった軍が勝利したかは、古代ローマ・ガリア戦役の2戦例(ビブラクテ、サビス川の戦い)を取り上げ詳解しようと思います。

 本稿は鈎型陣形が耐久により包囲攻撃に対し勝利した事例に説明の重点が置かれています。けれども鈎型陣形はそれ単体での耐久勝利よりもむしろ他の逆襲戦術と組み合わされることで大きな威力を発揮したものです。それらの戦術を理解するための基礎としても必要であるため、まず単体について記そうと思います。
→別拙稿 鉤型陣形を組み合わせた逆襲 後日作成します。続きを読む

 古代ローマ、この強大な国家には何度か変質をした転換点がありました。その内の1つが前1世紀に起きたガリア戦争及びローマ内乱期です。これらの戦争の中で幾人かの優れた将軍、そして後世で研究されることになる高度な戦術と作戦が記録されることになります。この転換期にユリウス・カエサルは絶大な影響をもたらし歴史上において比類なき人物としてその存在を刻み込みました。
 彼の賛同者は最高の賞賛を与え反対者は最大の批判をし、歴史に興味を抱かない人々の間ですら名を覚えさせてしまうほど、カエサルはあまりにも魅力的人物なのでしょう。軍事面においてもカエサルは単に会戦に勝ったというだけでなく高度かつ複雑な軍事理論を遂行しており、極めて卓越した将なのは間違いありません。

 ただ、あるいは故にと言うべきでしょうが、彼と戦った者達もまた忘れられるべきではない活躍をしています。政治、外交、軍事、文才、コミュニケーション能力…ほぼあらゆる面で圧倒的に優れていたカエサルに対しそれでも戦いを挑んだ人々の存在は何かの意味を残したのだと思います。
 今回はその中のティトゥス・ラビエヌスという人物の戦史を紹介したいと思います。人物の伝記はBlake Tyrrellが記してくれていますので本稿ではテーマとはせず、幾つかの軍事理論の方を主題としその実戦例としてラビエヌスの戦史記録を取り上げることとします。(よって紹介する会戦の時系列を意図的に並べ替えます。)

 かつて副司令官としてカエサルと共に戦い、後にカエサルを相手に戦い、そしてカエサルに会戦で勝利した1人の軍人の記録です。

BCE52_Battle of Lutetia_4
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 東ローマのユスティニアヌス、そしてササン朝のカワード1世は恐らくこの2大国の長き歴史の中でも有数の名を知られた君主です。彼らの時代に両国間国境は大きく動きはしないものの多くの衝突を繰り返しました。まさに大国らしい大規模な軍事戦略と強かな外交の中で、幾名もの将が会戦を行い名を残します。そして531年にとある戦役がユーフラテス川沿いで発起されました。

 カリニクム戦役と呼ばれるこの時東方戦線の司令官を務めたのは後に東ローマで最高の将と称えられるべリサリウスでした。米軍や英軍ではかなりの人気があり日本でも知名度は東ローマの中ではずば抜けた将軍だと思います。まだ若きべリサリウスはこの戦役でもその優れた才覚の片鱗を見せササン朝の侵攻に対抗します。
 一方ササン朝の遠征軍を率いたのはアザレテスと呼ばれる軍人でした。彼は記録が少なく恐らくあまり知名度の無い人物ではありますが、本戦役でその手腕を明確に示すことになります。1つは会戦を避けようと退却し作戦全体を見直した視野の広さで、そしてもう1つはあのべリサリウス率いる東ローマ軍を壊滅させた戦術で、アザレテスは素晴らしくそして後世の人々が幾つかの軍事理論を理解するのに役立つ指揮を戦史に残してくれました。

 以下にはカリニクム(現ラッカ周辺)で行われた会戦での水場側への片翼包囲、兵士統制の難しさ包囲の困難性とリスク、対包囲戦術としての鈎型陣形、そして会戦へ到るまでの退却行について注目しながらその戦史を紹介しようと思います。
531_Battle of Callinicum_gif

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 日露戦争について最初に製作されたロシア帝国軍の公式戦史を紹介しようと思います。

日露戦争1904-1905年(Русско-японская война 1904-1905 гг)
製作】ロシア帝国軍参謀総局 軍事史委員会(военно-исторической комисиии)
出版年度1910年
【日露戦争史編纂委員会委員長】ヴァシリー・グルコ少将(当時)_Гурко, Василий Иосифович

 戦争直後の1906年、ロシア帝国軍参謀総局は公式日露戦争史編纂のために軍事史委員会を設置しました。この戦争に参戦したグルコ少将の指導の下で委員会は詳細な記録を集め、地上戦に関し極めて緻密な図や統計を含んだ全9巻の書籍を4年の歳月をかけ完成させます。

 21世紀に入り、Runiversというロシアの図書電子化プロジェクト団体がこの書籍を公開してくれています。
 勿論記されている軍公式の解説文も戦争直後の認識を知るための貴重な資料なのですが、特にありがたいのは巨大な図を高解像度で見られることだと思います。ページ数だけで330以上、組織やシステム図まで足すと360枚以上の図があり細かく地形や部隊配置が記されています。戦況全体だけでなく各衝突部ごとにピックアップされているので1つの戦域だけで数十枚になっています。旅順の要塞は戦闘が激しかった防塁の設計図と日本軍の接近ルートが載っています。しかも戦況図などは部隊がカラー化してあります。ぜひ図集だけでも目を通してみてください。

【第1巻】戦争直前の各国の動向と出来事、戦争準備
【第2巻】得利寺の戦い
【第3巻】遼陽会戦 (大石橋の戦いから奉天への退却を含む)
【第4巻】沙河会戦
【第5巻】奉天会戦
【第6巻】Сыпигайский戦闘期(満州の開原市周辺域)
【第7巻】軍の組織、システムなど戦線以外の記録、各種統計データ
【第8巻】遼東半島防衛と旅順攻囲戦
【第9巻】副次的戦線
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 今回は片翼が一時的に押し込まれ包囲形が見え始めた時、そこから逆襲する戦術の事例としてアヴァライールの戦い(Battle of Avarayr)を紹介したいと思います。この会戦はアルメニア史およびアルメニア正教にとって極めて重大な戦争として位置づけられておりますが、ササン朝側に重点を置きながら紹介したいと思います。
451_battle of Avarayr_9

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 1917年末に開始されたロシア内戦は拡大し、ボリシェヴィキと呼ばれたレーニンらの政府勢力は各地で戦線を開くことになります。諸反対勢力の蜂起だけでなく諸外国の干渉は事態を複雑化しました。
 1918年初頭に労農赤軍の創立が正式に宣言されボリシェヴィキは一部で反撃を開始するも白軍や外国軍によって幾度か危機を迎えます。3月にドイツら中央同盟国軍に大規模な領土割譲を認める代わり戦争を収束させるブレスト=リトフスク条約を締結。ただ諸白軍との戦争は続き、しかも今度はWW1の戦勝国が介入を本格化します。ボリシェヴィキはモスクワを中心としながらペトログラード(後のレニングラード)やスモレンスクを保持する領域で耐えロシア各地で支持者が入り乱れます。

 1919年は特に厳しい時期であり、レーニンは帝国時代の首都だったペトログラードの放棄を悩むほどになります。この時ペトログラードへ迫ったのはそれまであまり日の目を見ていなかったバルト三国周辺、特に陥落していなかったエストニアから進む北西軍でした。率いていたのはWW1オスマンとの戦線で活躍したユデーニチ将軍です。彼は連合軍の支援を受け、関係勢力を驚かせる進撃を見せました。
1919_ユデーニチの攻勢と赤軍の反撃

 以下にはユデーニチ北西軍と対したペトログラード周辺の赤軍及びトロツキーについて中心に、その戦闘の一部を鉄道路線に着目しながら記載します。
別記事→【資料紹介_ロシア内戦_戦況図集】に全体図はあります。

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