戦史の探求

戦史の情報を整理し探求するサイトです。 古今東西の全てを対象とし、特に戦況図や作戦図に着目しながら戦略・作戦・戦術について思索します。

タグ:軍事理論

 地理が軍事作戦に絶大な影響を与えることは遍く認識されており、特に通行困難地帯をどう評価し部隊配置とどういう位置関係にするかは主要テーマの1つです。
 戦力を集中した片翼包囲の実施を望む場合、検討を要するのが「通行困難地帯側へ向けて進撃する」包囲とするか「通行困難地帯側から進発する」かです。(最も戦例が多く且つ明確性のある水場を今回は念頭におくこととしますが、険しい山岳部、沼地、川や海等々ではどんな差異があるのかも考えてみてください。)この2つについて短いながら説明をした上で、水場側からの翼包囲が実施された戦例を幾つか紹介します。

 本稿は基礎的理論の振り返りではありますが、ある程度戦術/作戦の好まれやすい方策を既に知っている人に向けて書いています。というのも、「内陸側から水場側へ向けて包囲を行う」ことのアドバンテージを理解しているあまり、それが『普遍的正答』だと思ってしまうのを避けるためです。実戦例を探ると別方向へ発起されているケースが多々あり、複合的に敵味方の要素を組み合わせて駆け引きをすると必ずしもそれが最適とはならない場合があります。これも当たり前のことではありますが、意外と頭から抜けて特定戦術/作戦を指向してしまうので自戒の意味も込めて記しました。ですのでややくどい表現となっており、そもそも水場側への包囲というテーマに初めて着目する方にはなぜここまで言っているのかわかりづらいかもしれません。
gif_水場への片翼包囲

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 機動防御とは何か、そして陣地防御とどのようにわけるべきなのかという議論は一見簡単に見えて非常に根深い問題を抱えています。

【機動防御を巡る米軍の混乱】
http://warhistory-quest.blog.jp/20-Mar-23
何がモバイルなのか
 それについて前回の記事で簡単にその一部に触れましたが、まだわかりにくかったかもしれません。Walters少佐の論文のp.38に記されているように、このテーマはともすれば衒学的になってしまいがちです。
 それでも本テーマは現代の防御ドクトリンを考える上で重要な価値があると思います。この困難な道を研究する人々の何かの刺激になればと思い、本記事にはこの問題を考える上で参考になる資料の一部を訳せるだけ訳しました。特に1993年にWalters少佐が提出した論文を中心としています。
 目次は下記となります。最初に用語の説明を教範中から抜粋した後で論文試訳を行い、最後にそれらを踏まえた上で幾つかの年代の教範の実際の記述を記すこととします。教範の翻訳はエリア防御とモバイル防御両方の範囲を含みます。もしかしたら論文よりも教範の文章を先に読んだ方がいいかもしれません。

用語解説
・2001年版FM3-90 Tactics 第8章_防御作戦の基礎(MBAとFEBA、Battle positionの定義)
・1954年版FM100-5 Operations 第296項_主逆襲と局地逆襲

論説翻訳
・1964年論考_Infantry_防御マニューバ_歩兵学校の定期誌でのモバイル防御問題の論考
・1973年論考_Militery Review 12月号_柔軟対応ドクトリン
・1994年論文_Mobile Defense : Extending the Doctrinal Continuum_モバイル防御の混乱について新条件を組み込んで解決しようとした論文(本文全翻訳)

教範中のエリア防御とモバイル防御の記述
・1954年版FM100-5 Operations 第9章_防御
・1960年版Landing Party Manual_第10章_防御_陸戦隊の教範中でのモバイル防御とポジション防御
・1993年版FM100-5 Operations 第9章_防御の基本事項
・2015年版FM3-90-1 Offense & Defense _第7章_エリア防御(縦深防御と前方防御)
・2019年版ADP3-90 Offense and Defense_エリア防御とモバイル防御そして後退行動の定義続きを読む

 「カバゾス将軍が37の戦闘指揮訓練プログラムの先任管轄者としての経験を述べた所によれば、指揮将校学生を含むあらゆる(米軍の)指揮官は少なくとも一度は彼らが機動防御と呼んだ作戦を実施してきたという。さらに続けて彼は断言した、現在に至るまで機動防御を1度でも実際に実行した指揮官は1人も存在しない、と。」 
G.L.Walters少佐, (1993), "Mobile Defense : Extending the Doctrinal Continuum", p.2 より抜粋)
   
 「戦術について真面目に取り組む学生なら皆、現在の米陸軍ドクトリンに組み込まれている2つの基本マニューバ形態の概念的な理解を深める必要性にすぐに直面する。」 
(米陸軍歩兵学校, (1964), "Infantry", p.27)
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 本記事は日本で機動防御と呼ばれる防御形態について、特に米軍の解釈とそこに巻き起こった混乱に関する基礎情報を記します。別途製作する論文及び教範の抜粋試訳を読む際の基盤にして頂けたら幸いです。誰もがわかっているようでいざ話してみると詳細が一致せず、米軍の教範に書かれていることを深く考察すると様々な疑問点が生まれ出でます。むしろ教範を1つしか読まない方がその迷路に入らずに済み、年度別版や実戦用の師団や旅団の教範など複数を読み進めていくと謎が深まっていきます。
 本稿は混乱を紹介するものであり、解答を示すものではありません。この難題に関する考察や資料が何かあればどうか教えてください。
counterattack in mobile defense and area defense


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 「ある守備態勢をとっている相手に攻撃を仕掛ける場合、攻撃側は守備側よりも3倍以上の兵力を揃えておくべきである」という言い伝えがあります。これを攻撃側3倍の法則(3:1 rule)と呼び、歴史的にある程度の普遍性がある戦理だと捉えている人は数多くいます。また他の状況下での兵力比率についても数値が与えられている書籍を見かけることもあります。
 ですがこの兵力比率は本当に何らかの論理的根拠や歴史的統計から導きだされた法則なのかはかなり疑念をもたれており、激しく批判する研究者も存在します。

 本稿ではまず米陸軍が教範に採用している該当箇所を抜粋翻訳し、次に統計調査の1つを紹介した上で所感を幾つか書いてみようと思います。米陸軍の表だけしか見ない場合深刻な誤解を招きかねないため、必ず教範文章に目を通してください
 自分の結論を先に書いておくと、『米軍教範の成功戦力比表は実戦で適用できる法則と言えるだけの根拠は存在しないが、立案時の初期スタート基準としては有用であり、立案途中段階で修正を加えるのに役立つ』という意見です。

 また、FM6-0及びATP5-0.2は参謀が立案をする際に具体的にどう進めるかを把握するのに役立ちますので、参謀業務やウォーゲームについて興味がある方はぜひ目を通して見てください。
戦力比別成功率表

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 野戦において溝や穴を地面に掘り戦術に利用する手法を塹壕戦術(Entrenchment Tactics)と言います。野戦のものはその性質や準備時間の違いなどから、要塞の防御用や攻城側が接近するためまたは建設物を崩すための掘削戦法とは別で捉えられます。野戦築城の一種として塹壕は絶大な効果を発揮し、戦史にかなりの影響をもたらしました。

 イタリア~西欧で塹壕を中心とした野戦築城は恐らくイタリア戦争でその効果が完全に広まりましたが、各軍人に共通認識として確立したかはともかく、それより遥か前から塹壕戦術は存在し一部に知られていました。オスマン軍の大規模な野戦築城で東欧諸国は触れてアレンジしていますし、それ以前ならティムールが頻繁に使い、更に昔から各国で使用例はあります。
 ですが要塞用の壕が太古からあるのと比べると野戦では意外と事例が少なく、メインに塹壕を据えたのが「広まった」のはだいぶ後の時代とされています。イスラム世界では預言者ムハンマドが寡兵で敵を撃退するために溝を掘ったことが最初の野戦での使用例と言われることが多いようです。ただこれより昔から使用された戦は存在します。そして興味深いことに、そのうちのいくつかは知見が使った相手に継承され次々と隣国へと広がり渡って行った形跡が見られるのです。
 今回は野戦で大地を掘削し溝を作ることで戦術的に活用した戦例の記録を追い、その軍事的知恵の継承について記述してみたいと思います。
塹壕戦術_2
 一応はべリサリウス率いる東ローマ軍とササン朝との戦争の補足でもあります。
【カリニクムの戦い_531年_片翼包囲_鈎型陣形による対包囲】
http://warhistory-quest.blog.jp/20-Mar-14続きを読む

 東ローマのユスティニアヌス、そしてササン朝のカワード1世は恐らくこの2大国の長き歴史の中でも有数の名を知られた君主です。彼らの時代に両国間国境は大きく動きはしないものの多くの衝突を繰り返しました。まさに大国らしい大規模な軍事戦略と強かな外交の中で、幾名もの将が会戦を行い名を残します。そして531年にとある戦役がユーフラテス川沿いで発起されました。

 カリニクム戦役と呼ばれるこの時東方戦線の司令官を務めたのは後に東ローマで最高の将と称えられるべリサリウスでした。米軍や英軍ではかなりの人気があり日本でも知名度は東ローマの中ではずば抜けた将軍だと思います。まだ若きべリサリウスはこの戦役でもその優れた才覚の片鱗を見せササン朝の侵攻に対抗します。
 一方ササン朝の遠征軍を率いたのはアザレテスと呼ばれる軍人でした。彼は記録が少なく恐らくあまり知名度の無い人物ではありますが、本戦役でその手腕を明確に示すことになります。1つは会戦を避けようと退却し作戦全体を見直した視野の広さで、そしてもう1つはあのべリサリウス率いる東ローマ軍を壊滅させた戦術で、アザレテスは素晴らしくそして後世の人々が幾つかの軍事理論を理解するのに役立つ指揮を戦史に残してくれました。

 以下にはカリニクム(現ラッカ周辺)で行われた会戦での水場側への片翼包囲、兵士統制の難しさ包囲の困難性とリスク、対包囲戦術としての鈎型陣形、そして会戦へ到るまでの退却行について注目しながらその戦史を紹介しようと思います。
531_Battle of Callinicum_gif

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