戦史の探求

戦史の情報を整理し探求するサイトです。 古今東西の全てを対象とし、特に戦況図や作戦図に着目しながら戦略・作戦・戦術について思索します。

タグ:陣地防御

 機動防御とは何か、そして陣地防御とどのようにわけるべきなのかという議論は一見簡単に見えて非常に根深い問題を抱えています。

【機動防御を巡る米軍の混乱】
http://warhistory-quest.blog.jp/20-Mar-23
何がモバイルなのか
 それについて前回の記事で簡単にその一部に触れましたが、まだわかりにくかったかもしれません。Walters少佐の論文のp.38に記されているように、このテーマはともすれば衒学的になってしまいがちです。
 それでも本テーマは現代の防御ドクトリンを考える上で重要な価値があると思います。この困難な道を研究する人々の何かの刺激になればと思い、本記事にはこの問題を考える上で参考になる資料の一部を訳せるだけ訳しました。特に1993年にWalters少佐が提出した論文を中心としています。
 目次は下記となります。最初に用語の説明を教範中から抜粋した後で論文試訳を行い、最後にそれらを踏まえた上で幾つかの年代の教範の実際の記述を記すこととします。教範の翻訳はエリア防御とモバイル防御両方の範囲を含みます。もしかしたら論文よりも教範の文章を先に読んだ方がいいかもしれません。

用語解説
・2001年版FM3-90 Tactics 第8章_防御作戦の基礎(MBAとFEBA、Battle positionの定義)
・1954年版FM100-5 Operations 第296項_主逆襲と局地逆襲

論説翻訳
・1964年論考_Infantry_防御マニューバ_歩兵学校の定期誌でのモバイル防御問題の論考
・1973年論考_Militery Review 12月号_柔軟対応ドクトリン
・1994年論文_Mobile Defense : Extending the Doctrinal Continuum_モバイル防御の混乱について新条件を組み込んで解決しようとした論文(本文全翻訳)

教範中のエリア防御とモバイル防御の記述
・1954年版FM100-5 Operations 第9章_防御
・1960年版Landing Party Manual_第10章_防御_陸戦隊の教範中でのモバイル防御とポジション防御
・1993年版FM100-5 Operations 第9章_防御の基本事項
・2015年版FM3-90-1 Offense & Defense _第7章_エリア防御(縦深防御と前方防御)
・2019年版ADP3-90 Offense and Defense_エリア防御とモバイル防御そして後退行動の定義続きを読む

 「カバゾス将軍が37の戦闘指揮訓練プログラムの先任管轄者としての経験を述べた所によれば、指揮将校学生を含むあらゆる(米軍の)指揮官は少なくとも一度は彼らが機動防御と呼んだ作戦を実施してきたという。さらに続けて彼は断言した、現在に至るまで機動防御を1度でも実際に実行した指揮官は1人も存在しない、と。」 
G.L.Walters少佐, (1993), "Mobile Defense : Extending the Doctrinal Continuum", p.2 より抜粋)
   
 「戦術について真面目に取り組む学生なら皆、現在の米陸軍ドクトリンに組み込まれている2つの基本マニューバ形態の概念的な理解を深める必要性にすぐに直面する。」 
(米陸軍歩兵学校, (1964), "Infantry", p.27)
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 本記事は日本で機動防御と呼ばれる防御形態について、特に米軍の解釈とそこに巻き起こった混乱に関する基礎情報を記します。別途製作する論文及び教範の抜粋試訳を読む際の基盤にして頂けたら幸いです。誰もがわかっているようでいざ話してみると詳細が一致せず、米軍の教範に書かれていることを深く考察すると様々な疑問点が生まれ出でます。むしろ教範を1つしか読まない方がその迷路に入らずに済み、年度別版や実戦用の師団や旅団の教範など複数を読み進めていくと謎が深まっていきます。
 本稿は混乱を紹介するものであり、解答を示すものではありません。この難題に関する考察や資料が何かあればどうか教えてください。
counterattack in mobile defense and area defense


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 陣地防御機動防御について米陸軍の考え方の紹介をしようと思います。大半が教範または軍の論文の訳であり、補足説明は最初に少し書いであるだけです。陣地防御と機動防御はその名前は有名であり極めて重要な防御フォームであるにも関わらず、その中身の説明があまりに簡略化され(或いは名前だけから想像をして良くも悪くも話される)誤解を生んでいるのを見たことがあるかもしれません。本記事では米軍教範と論文によってその元の説明文の紹介を行います。
 …しかし本記事はその混乱を解くものではありません。なぜなら米軍のエリア防御とモバイル防御の説明には深刻な問題点があり、米軍内ですら混乱と論争があるからです。(もしかしたら誰かの論文で明解な答えを示してくれているかもしれませんが、少なくとも現在時点の米陸軍野戦教範及びドクトリン教範は問題を抱えたままです。)むしろ教範などを読み込まない部分的な理解である方が混乱はしないのかもしれません。ただそれでは重大な欠落が伴ってしまいます。ですので教範と論考の知識を深め、それ故に混乱へと踏み込み、深い考察をする入口として本拙稿を記そうと思います。
  
「戦術について真面目に取り組む学生なら皆、現在の米陸軍ドクトリンに組み込まれている2つの基本マニューバ形態の概念的な理解を深める必要性にすぐに直面する。」 
1964年 米陸軍歩兵学校 Infantry p.27より抜粋
エリア防御での逆襲
(上図は機動防御か陣地防御どちらだと感じるでしょうか。最初に考えて頂けると良いかもしれません。)

  非常に長くなるため本記事ではまず米陸軍がエリア防御(ポジション防御)と呼ぶものについてを抜粋します。また本文では陣地防御をエリア防御、機動防御をモバイル防御と元の英単語がわかるように記述します。
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 日露戦争について最初に製作されたロシア帝国軍の公式戦史を紹介しようと思います。

日露戦争1904-1905年(Русско-японская война 1904-1905 гг)
製作】ロシア帝国軍参謀総局 軍事史委員会(военно-исторической комисиии)
出版年度1910年
【日露戦争史編纂委員会委員長】ヴァシリー・グルコ少将(当時)_Гурко, Василий Иосифович

 戦争直後の1906年、ロシア帝国軍参謀総局は公式日露戦争史編纂のために軍事史委員会を設置しました。この戦争に参戦したグルコ少将の指導の下で委員会は詳細な記録を集め、地上戦に関し極めて緻密な図や統計を含んだ全9巻の書籍を4年の歳月をかけ完成させます。

 21世紀に入り、Runiversというロシアの図書電子化プロジェクト団体がこの書籍を公開してくれています。
 勿論記されている軍公式の解説文も戦争直後の認識を知るための貴重な資料なのですが、特にありがたいのは巨大な図を高解像度で見られることだと思います。ページ数だけで330以上、組織やシステム図まで足すと360枚以上の図があり細かく地形や部隊配置が記されています。戦況全体だけでなく各衝突部ごとにピックアップされているので1つの戦域だけで数十枚になっています。旅順の要塞は戦闘が激しかった防塁の設計図と日本軍の接近ルートが載っています。しかも戦況図などは部隊がカラー化してあります。ぜひ図集だけでも目を通してみてください。

【第1巻】戦争直前の各国の動向と出来事、戦争準備
【第2巻】得利寺の戦い
【第3巻】遼陽会戦 (大石橋の戦いから奉天への退却を含む)
【第4巻】沙河会戦
【第5巻】奉天会戦
【第6巻】Сыпигайский戦闘期(満州の開原市周辺域)
【第7巻】軍の組織、システムなど戦線以外の記録、各種統計データ
【第8巻】遼東半島防衛と旅順攻囲戦
【第9巻】副次的戦線
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冷戦期、西ドイツをワルシャワ条約機構から防衛するためNATO軍が配備されていましたが、その中でもよく議論されたフルダ・ギャップと呼ばれる場所があります。そこはドイツ中央部に位置し、東ドイツの領土が最も突出した箇所に面している所です。北ドイツ平野に比べ中央~南部は山が多く侵攻には手間がかかります。ただここは天然の障害物となれる大きな河川のフルダ川と山系が国境沿いにあるのですが、そこを越えると大きな障害が無く一挙にフランクフルト周辺の広大な平野と人口・産業地帯そして米軍の重要後方拠点まで進出できてしまうため注目されました。
標高_ドイツ中央部東西ドイツ地図_高速道路

 1980年米軍の高級将校たちがある会議にWW2のドイツ国防軍でその名を馳せたヘルマン・バルクとフォン・メレンティン両将軍を招きました。その目的はフルダ周辺に配備されている米陸軍第5軍団の兵棋演習でした。
 米軍側はデピュイ大将、オーティス中将、ゴーマン中将を筆頭に、軍団区域の南を担当する歩兵師団の戦術プランを説明しドイツの両将軍の質疑に答えました。一方でドイツの両将軍はその場で戦場や戦力の説明を受け、それから軍団区域の北の第3機甲師団の戦術プランを彼らが考え話すことになります。この両者のコンセプトや経験は米軍関係者にとって参考になるものでした。
 兵シミュレーションなどを作成しているBDM社の協力の下、彼らは4日間の戦術的な分析議論を行い、後に会議内容をまとめたレポートをデピュイ大将が作成しました。

 William E. Depuy, (1980), "Generals Balck and Von Mellenthin on Tactics: Implications for NATO Military Doctrine"

 今回はこのレポート内容について記そうと思います。一部翻訳している箇所もありますが、基本的にデピュイ大将の書いている文の要点を内容を把握できる程度にメモ書きしたものとなります。
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 先に自分ならどうするか考えてみて頂けると、後々の思索が深まると思います。ですのでまず始めに戦域およびソ連軍の戦力と初期配置のみにした図を貼っておきます。地形は上図を参照ください。AlsfeldからBad Hersfeld中心までは直線距離33.5㎞です。
 米軍は第5軍団所属の第3機甲師団が北に、第8機械化歩兵師団が南に配置されます。戦力詳細は次のようになりますので、よければこれをまずどこに初期配置するか考えてみてください。
第3機甲師団の域内戦力
  機甲=6個大隊
  歩兵=5個大隊(全て機械化)
  砲兵=8個大隊(全て自走砲化)
  騎兵=3個大隊(機甲偵察車両)

第8機械化歩兵師団の域内戦力
 機甲=5個大隊
 歩兵=6個大隊(全て機械化)
 砲兵=9個大隊(全て自走砲化)
 騎兵=2個大隊(機甲偵察車両)

 ※師団サイズは米軍第3機甲師団は約15000人、ソ連の戦車師団は1個あたり12000人前後としてください。
 ※1960年代のIvashutin将軍の文書によるとソ連の作戦は核兵器使用の有無に関わらず実行可能とされた。
NATO演習_00
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 1965年の印パ戦争はエスカレートを続け、後期は完全な正規軍同士の正面衝突となります。ジャンムー&カシミール地方根本の突出部周りで会戦が複数行われ、短期間ながらも攻守が入れ替わる流動的な戦闘が起きました。

 それらの攻勢が開始された原因は、ある重要地点を救うために別の重要地点に攻撃をかけるという戦略を両国共に取ったからでした。しかしそれは充分な準備なしに攻撃と反撃を実施する事態を引き起こし、戦闘部隊の活躍とミスの両方があったことで決定的な戦果へと到ることは困難でした。
 今回はその一部、Operation Grand SlamとBattle of Lahoreの2つについて記述してみたいと思います。戦術面ではパキスタン機甲旅団による川を背にした狭域での積極的迎撃戦闘に着目しています。

※1965年戦争のフェイズ1とフェイズ2は【ジブラルタル作戦_ハジピール山道の戦い_1965_ゲリラ浸透と対抗作戦】を参照 リンク↓
http://warhistory-quest.blog.jp/19-Nov-08

※長くなるためWW2以降で史上最大の戦車戦とインド軍が謳うアサール・ウッターの戦いとフィロラの戦いは次回以降。
北部_第15師団戦域_9月8日午後
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